今回から三菱ケミカルホールディングスを取り上げていくが、まず、識別されたKAMがいずれも会計上の見積りに関するリスクであることが評価できる。「収益認識」や、「経営者による内部統制の無効化」といった、監査基準によって不正リスクがあるという推定により「特別な検討を必要とするリスク」と識別することが要求されている典型的なリスクではなく、企業固有のリスクが識別されているからである。

それでは、その1つ目のKAM、産業ガス事業の企業結合を読んでいこう。
産業ガス事業の企業結合
監査上の主要な検討事項に相当する事項の内容及び決定理由
会社の連結子会社である大陽日酸株式会社 は、連結財務諸表注記5に記載されているとお り、2018 年 12 月3日付で、プラクスエア社(米国)の欧州における産業ガス事業を取得した。 取得対価は、635,847 百万円であり、会社は、外部の評価専門家を利用して、取得した識別可能な資産及び引き受けた負債の認識及び測定を行った。その結果、無形資産及びのれんを、そ れぞれ 208,301 百万円及び 310,401 百万円計上 している。 識別した無形資産は、主に顧客に係る無形資産であり、顧客に係る無形資産の測定における重要な仮定は、将来の売上収益の予想、既存顧客の減耗率及び割引率である。 企業結合における顧客に係る無形資産の測定は、複雑であり、経営者による判断を伴うものであることから、当監査法人は当該事項を監査上の主要な検討事項に相当する事項に該当するものと判断した。
KAMが識別されている企業結合取引は、2018年12月に行われたプラクスエア社(米国)の取得である。金額に重要性があるとともに、その会計処理で認識される無形資産の測定にあたっての会計上の見積りが複雑で、経営者による仮定や判断を伴うことからKAMとして識別されている。
なお、重要性の基準値については監査報告書に開示されていないが、税引前利益の5%と仮定すると288,056百万円x5%=14,402百万円となる。無形資産の金額(208,301百万円)はこの14倍程度の重要性ということになる。

参照されている注記5には、当期に行われた取得取引として、プラクスエア以外に、マチソン・トライガス社の取得も開示されているが、対価の金額が46,133百万円であり、のれんと無形資産はそれぞれ7,185百万円と8,356百万円であり、重要性が低いため、KAMには含まれていない。

(クリックして読んでください。)
三菱ケミカルろのれん1-3
三菱ケミカルろのれん1-1

三菱ケミカルろのれん1-2

上の(注)1に、「顧客に係る無形資産203,900百万円」と書かれているので、無形資産のほとんどが既存の顧客との契約やその他のリレーションから生じる将来の利益を無形資産として評価したものであると考えられる。そのため、既存の顧客との関係が将来にわたってどれくらい続き、そこからどれだけの収益が得られるかを見積る必要があるが、そのためには経営者による仮定や判断が必要となる。
のれんについては、将来のシナジー効果と超過収益力が取得企業の純資産と支払った対価との差額でとして測定されるので、その測定は識別可能資産と負債の測定に依存している。
したがって、監査人としては、当初の取得時においては、特に無形資産の測定にリスクがあるという評価していると考えられる。


それでは監査人のリスク対応を読んでいこう。
監査上の対応
当監査法人は、顧客に係る無形資産の測定を検討するにあたり、主として以下の監査手続を実施した。
・当該事業の取得に関する取引を理解するために、契約書を閲覧した。また、マネジメントとディスカッションを行うとともに 取締役会への報告資料を閲覧した。
まず最初の手続は、会計上の見積りが必要となった状況の理解である。取得に関連する文書の閲覧、マネジメントとのディスカッション、さらに取締役会への報告資料を閲覧している。特に、当期に発生した取引であることから、取引を理解することは重要であり、そのために実施した手続を含めることは意味があると思う。
次は専門家の利用に関する手続である。
・マネジメントが利用した外部の評価専門家の適性、能力及び客観性を評価し、監査手続の実施を 通じて、外部の評価専門家に対して質問を行 った。
・当監査法人のネットワーク・ファームの評価専門家を関与させ、顧客に係る無形資産の 測定方法を検証し、重要な仮定を評価した。
まず、マネジメントが利用した外部の評価専門家の適性
、能力および客観性について評価をしている。具体的には、デューディリジェンスレポートを作成した専門家に対する質問を行うとともに、能力や独立性の評価などを行ったと考えられる。
監査人は、ネットワークファームの評価専門家に、マネジメントが利用した外部専門家によるデューディリジェンスレポートをレビューさせ、評価方法や重要な仮定の評価を行っている。
・将来収益の予想については、マネジメント及び事業計画の作成責任者と議論し、産業ガス事業の特性に基づいて過去の実績及び類似企業と比較した。さらに、不確実性を考慮し、利 用可能な外部データを用いた売上収益の予測との比較を行った。
ISA540「会計上の見積り」パラグラフ8は、監査人に対してマネジメントの見積りプロセスを理解することを求めているが、上を読む限り、監査人は、マネジメントおよび事業計画の作成責任者と将来収益予想について議論したと説明しているものの、マネジメントがどのように無形資産を測定したか、すなわちマネジメントによる見積りのプロセスについて理解したとは書かれていない。
買収にあたって、評価専門家から入手したデューディリジェンス・レポートに含まれている収益予想を事業計画をベースに議論したのみになってしまっている。事業計画の収益予想以外の重要な仮定、例えば無形資産の耐用年数などについて、マネジメントが特にその不確実性についてどのように評価したか、また企業の内部統制としてどのようなレビューが行われていたかについても説明が欲しいと感じる。

ISA540.8

監査人は、企業とその取り巻く環境を理解し、内部統制を理解する目的においてISA315で求められるリスク評価手続を行うにあたり、特に会計上の見積りに関連する虚偽表示リスクを識別するために、以下について理解する必要がある。

  1. 会計上の見積りは、財務諸表作成のために行うことから、まず監査人はIFRSを理解しなくてはならない。
  2. 次に、マネジメントが、どういった場合に「会計上の見積り」が必要となるか、または過去の見積りの見直しが必要になると考えているのかについて質問することにより、マネジメントが見積りの必要となる取引や状況を的確に把握しているかどうか理解する。
  3. さらに、マネジメントがどのように見積りを行っているか理解するために、以下の質問を行う。
  • どうやって見積っているのか、また、どのようなモデルやデータを使っているのか
  • 見積りが正しいことをチェックする企業内の体制や内部統制としてどういったものがあるのか
  • 見積りにあたって専門家を活用したのか
  • どういう仮定をおいて見積もったのか
  • 見積り方法に変更はあったか、ある場合、その理由は
  • 見積りに内在する不確実性について、マネジメントはどう考え、どう対処したのか

続いて、重要な仮定の妥当性をテストするための実証手続である。
・既存顧客の減耗率については、過去の主要顧客データ及び顧客との契約書を入手し検討するとともに、減耗率の変動リスクを考慮した感応度分析を実施した。
既存顧客の減耗率を、過去の顧客データと契約書を検討したとあるが、どのように減耗率の妥当性、さらに無形資産の経済的耐用年数の妥当性の結論につなげたかはよくわからない。おそらく、主要顧客との過去の取引実績データと、契約内容から、実績ベースの減耗率を算出し、マネジメントの仮定と比較したものと考えられる。
また、監査人は感応度分析を実施していることは理解できるが、マネジメントが見積りの不確実性について、どのように評価し、どう対処したのかについては記載がない。
・割引率については、利用可能な外部データ を用いて、当監査法人のネットワーク・ファーム の評価専門家による見積りと比較した。
割引率については、監査人の専門家によるよる独自見積りと、マネジメントの見積りとを比較したことがわかる。割引率についての感応度分析については言及されていないのは重要性がないという監査人の判断と思われる。

全体的な感想としては、そもそもこれを公表したこと自体が企業にとって意欲的な取り組みであるし、KAMの内容も、具体的である。さらに求めるとすれば、上にも書いた通り、マネジメントによる見積りのプロセスを評価し、その結果がどうだったのかというところまで記載されていれば、利用者にとってさらに有益になったように感じる。

この記事の最後に、KAMの原文を下に貼り付けているが、監査人としての所見が記載されていないのは、これまで読んできた欧州の多くの事例との違いとなっている。
KAMの説明に含めるべき事項は、ISA701で以下のように規定されており、手続の結果や監査人の所見を書くことは必ずしも求められておらず、監査人の職業的専門家としての判断に委ねられている。
個々のKAMの説明
13.監査報告書のKAMセクションに含まれるKAMの説明には、関連する開示への参照(もしあれば)とともに、以下について言及すべきである。(参照 A34–A41)
(a)その事項が監査において最も重要なものの1つであり、したがってKAMであると考えられた理由 (参照 A42–A45)
(b)その事項が監査でどのように対処されたか。 (参照 A46–A51)

A46  監査においてKAMがどのように対処されたかを説明するために監査報告書でどこまで詳細な情報を提供するかは、専門家の判断の問題である。 パラグラフ13(b)に従って、監査人は以下を含めることを検討すべきである。
・KAMへの関連性がもっとも強く、また、識別された重要な虚偽表示リスクに対して固有に対応する監査人の対応またはアプローチ;
・実施された手続の概要。
・監査人の手続の結果。
・KAMに関する重要な所見、またはこれらの組み合わせ。
法律または規制または各国の監査基準は、KAMの説明のための特定のフォームまたはコンテンツを規定する場合がある。
今回の事例は、監査報告書に添付されたKAMではなく、ホームページに任意で開示されたものであることも理由かもしれない。翌期以降、実際の監査報告書に含められる場合には、手続の結果や監査人の所見も含められることを期待したい。



(参考) ホームページに公表されているKAMの原文 (クリックして読んでください。)
三菱ケミカル_KAM(1)