前回は、三菱ケミカルのKAMを欧州の先行事例とベンチマークしたが、KAMの導入が監査に与える影響を考えてみたい。

これまで、監査人とガバナンス責任者との間では、監査の重点領域について一定のコミュニケーションが行われていたものの、社外に対しては短文式の監査報告書が提供されるだけで、その中身について知ることはできなかった。

KAMが開示されれば、ISAという監査のグローバルスタンダードにもとづいた、監査人のリスク評価から、リスクへの対応手続を海外企業と比較することも可能となる。

KAMの導入により、グローバルな資本市場に投資している投資家にとって有用な情報が開示されるので、資本市場の活性化に寄与することが期待できる。それだけに、ボイラープレートにならずに、監査人が当期の監査で特に注意を払った企業特有の状況への対応をKAMとして報告してもらいたい。そして、監査報酬を最終的に負担している投資家にとって有用な監査報告書を発行する監査法人が選別されるようになるのではないかと思う。

それでは、三菱ケミカルの最後のKAMを読んでいこう。繰延税金資産の評価である。将来の課税所得の見積りと繰延税金資産の回収可能性がリスクであり、KAMとしてはよくある内容である。それだけにボイラープレートにならずに、監査人が当期の監査で特に注意を払った企業特有の状況がリスクとして識別され、リスク対応手続がテイラーされているかに留意しながら読んでいきたい。

KAMの原文は三菱ケミカルのホームページの、IRトピックスのお知らせの中に含まれている。監査報告書は、三菱ケミカルホールディングスの2019有価証券報告書の177頁に含まれているが、短文式のものであり、KAMは含まれていない。

まずは、リスクの内容と、KAMと決定した理由についての説明である。
繰延税金資産の評価

監査上の主要な検討事項に相当する事項の内容及び決定理由  
会社は、2019 年3月 31 日現在、連結財政状態計算書上、繰延税金資産を 84,509 百万円計 上しており、連結財務諸表注記 11.に関連する開示を行っている。 会社は、将来減算一時差異及び税務上の繰越欠損金に対して、予定される繰延税金負債の取崩、予測される将来課税所得及びタック ス・プランニングを考慮し、繰延税金資産を認識している。特に、会社は、過年度に生じた税務上の繰越欠損金を有しており、予測される将来の課税所得の見積りに基づき、税務上の繰越欠損金に対する繰延税金資産を 64,069 百万円計上している。
注記11が参照されているのが、繰延税金資産の金額84,509百万円の数字は注記11ではなく、財政状態計算書を参照する必要がある。
(クリックして読んでください。)
三菱ケミカル_KAM(4-4)三菱ケミカル_KAM(4-5)

繰延税金資産 84,509百万円と繰延税金負債 177,410百万円の純額 △92,901百万円( = 84,509百万円 - 177,410百万円)が、注記11につながっている。また、繰越欠損金に対して認識された繰延税金資産64,069百万円も、注記11で確認できる。

三菱ケミカル_KAM(4-2)

注記11には、繰延税金資産が認識された将来減算一時差異および繰越欠損金とともに、回収可能性が見込めないとして、繰延税金資産が認識されていない将来減算一時差異および繰越欠損金が、以下のように開示されている。
三菱ケミカル_KAM(4-3)

繰越欠損金 374,604百万円に対する繰延税金資産58,308百万円が、回収される可能性が低いとして未認識となっており、その失効期限別の内訳が開示されている。また、繰越欠損金に加えて、将来減算一時差異 106,112百万円に対する繰延税金資産 30,172百万円も未認識であることがわかる。
この回収可能性の評価のための将来課税所得の見積りや経営者の判断に関する不確実性が主なリスクである。

監査人のリスク評価において、このリスクをKAMと判断した理由は以下のとおりである。
将来の課税所得の見積りは、将来の事業計画を基礎としており、そこでの重要な仮定は、主に売上の成長の見込み及び原料価格の市況推移の見込みである。 繰延税金資産の評価は、主に経営者による将来の課税所得の見積りに基づいており、その基礎となる将来の事業計画は、経営者の判断を伴う重要な仮定により影響を受けるものであるため、当監査法人は当該事項を監査上の主要な検討事項に相当する事項に該当するものと判断した。 
事業計画に基づいた課税所得の見積りの不確実性が、売上の成長や原料価格の市況推移の見込みに関する仮定に依存していることの説明である。他のKAMと同様に、KAMと判断した理由が、当期の監査に関連する企業の特定の状況への関連付けが弱いと感じる。
注記の中ではタックスプランニングを考慮して繰延税金資産を評価していると説明されており、特に三菱ケミカルは多額の繰延税金負債を計上していることから、これが将来の課税所得を増加させる効果とタイミングをマネジメントがどのように考慮しているかに着目してリスクを評価することはできなかったかと思う。

それでは、監査人のリスク対応を読んでいこう。
監査上の対応
当監査法人は、繰延税金資産の評価を検討するにあたり、主として以下の監査手続を実施した。
  • 一時差異及び税務上の繰越欠損金の残高について、税務の専門家を関与させ検討するとともに、その解消スケジュールを検討した。
  • 経営者による将来の課税所得の見積りを評価するため、その基礎となる将来の事業計画について検討した。将来の事業計画の検討にあたっては、経営者によって承認された直近の予算との整合性を検証するとともに、過年度の事業計画の達成度合いに基づく見積りの精度を評価した。
マネジメントによる見積り方法とその妥当性を評価している。一時差異と繰越欠損金の残高の検討には税務専門家を利用しているが、将来の解消スケジュールの検討は、監査チームで行っていると思われる。
将来課税所得の評価については、事業計画を直近の承認済みの予算と合わせるともに、過年度の事業計画と実績を比較することにより、事業計画の精度を評価している。繰延税金資産が重要な会計上の見積りとして識別された場合に、通常実施される手続である。

予算や事業計画の精度などについて検討しているものの、それらのレビューや承認プロセスといった内部統制については、言及されていない。監査人としてはリスクとの関連性が少ないと判断したものと思われる。

実証的な手続として、事業計画のベースとなっている仮定や将来の売上の成長率や原料価格の市況推移の見込を検証している。
  • 将来の事業計画に含まれる重要な仮定である売上の成長見込み及び原料価格の市況推移の見込みについては、経営者と議論するとともに、過去実績からの趨勢分析及び利用可能な外部データとの比較を実施した。
  • 将来の事業計画に一定のリスクを反映させた経営者による不確実性への評価について検討した。 
手続としては、経営者とのディスカッション、過去の実績からの推移分析、外部データとの比較を実施したという説明である。インダストリーの専門家の利用はしていないが、監査チームで十分な専門性があったという判断があったと思われる。
ISA540で求められている手続であるが、経営者による不確実性の評価について検討したとあるが、具体的にどのような検討を行ったのかはわからない。

全体的な感想としては、努力は感じられるものの、他のKAMと同じく、識別されたリスクと企業の特定の状況との関連付けが弱いと感じる。手続の結果や監査人の所見がKAMに含まれていないことに加えて、例えば、同じ繰延税金資産の評価をKAMとしているドイツ銀行の場合は、内部統制の評価についても言及しているなど、欧州の先行事例と比較すると、手続の内容の具体性や詳細さのレベルに差があると感じる。

また、欧州企業の監査報告書は、KAMを記載するだけでなく、監査アプローチや、重要性の概念の適用、さらにグループ監査のカバレッジについて、詳細な情報が提供されており、それらがKAMを理解する上で役に立っている。日本の上場企業では、翌期からKAMが導入されるが、これに相当する情報が提供されるのかどうかが気になる点である。

(参考) 監査報告書に記載されているKAMの原文 

三菱ケミカル_KAM(4)